1、、-1-二〇二四年度一般選抜期入学試験問題注意解答はすべて解答用紙に記入すること。(渡辺一夫『狂気について』による)【問い】次の文章を読んで、後の問いに答えよ。秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような。(ア)結果を持つ制裁でなければならない、これは忘れられやすい重大なことだと思うが、既成秩序の《A》に当たる人々、現存秩序から①アンネイと福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが②オンケイを受けている秩序が果して①永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを十分にわきまえる義務を持つべきだろう。即ち、秩序を守ることを他人に要求する人々は、自らにとってありがたい秩序であればこそ、正に、その改善と進展とを志さねばならぬはずである。寛容が、暴力らしいものを用いるかに見えるのは、右のような条件内においてのみであろう。しかし、この暴力らしいもの、すなわち【A】は、果して暴力と言えるのであろうか?十字路の通行を円滑ならしめるための青信号赤信号は暴力でないし、戸籍簿も配給も暴力ではない、人間の②恣意を制限して、社会全体の調和と進行とを求めるものは、契約的性格を持つが故に、暴力らしい面が仮にあるとしても、暴力とは言えない。、我々がこうした有用な契約に対して、暴力的なものを感ずるのは、この契約の《B》を要求する個々の人間の無反省、傲慢あるいは機械性のためである、③ムヤミやたらに法律を楯にとって弱い者をいじめる人々、十字路で人民をどなりつける警官などは、有用なるべき契約に暴力的なものを附加する人々と言ってもよい。こうした例は無数にある。用いる人間しだいで、いかに有用なものでも、有害となり、暴力的になるように思う。このことは、あらゆる人々によって《C》茶飯のうちに考えられていなければならぬことであろう。寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終りまで、何の《D》もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ【B】のである、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない、ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の④コウミョウもある。。(エ)人間の歴史は、一見不寛容によって推進されているようにも思う。しかし、たとえ無力なものであり、敗れ去るにしても、犠牲をなるべく少なくしようとし、推進力の一つとしての不寛容の⑤ボウソウの制動機となろうとする寛容は、過去の歴史のなかでも、決してないほうがよかったものではなかったはずである。そして。(イ)。(ウ)国語
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